うめこのぶろぐ

東京で暮らす既婚フリーランス女のたわごと

東京で働いて2週間弱でクビになったおはなし

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20代の頃地方と海外で働いた

20代のまだMACが大きな箱だった会社員の頃、地元地方の会社が経営する複合施設のポスターをつくれと命じられてイラストレーターを学びはじめた。当時のバージョンは8。

それから何年かして貯めた資金でカナダへ留学した。留学といってもワーホリから留学ビザに切り替えた語学留学だった。そこでコネクションを必死でつくり、カナダの小さなデザイン会社にインターンとして入社、いくつかのデザインをさせてもらえた。デザインにどっぷりハマり、いつか自分が作った広告が街に貼り出されたらいいな、なんて思ってた。

 

帰国し、もう一度海外へ行くためのお金を稼ぐため大手広告/印刷会社へ派遣として入社、チラシなどを主に作っていた。その当時のイラストレーターのバージョンはCSだった。当時、あるプロジェクトを任されるようになったが、残業が当たり前で朝4時に帰宅し、その日の朝9時に出勤なんて日もあった。月の残業時間185時間。ニュースにもなったあの大手広告代理店なみの残業っぷりだった。

結婚を機に東京へ

月日は流れ、海外で数年過ごしたりもしたが、海外へ移民手続きのため帰国し、地方のホテルで働いていた。イラストレーターはそのホテルのちょっとした広告と趣味程度に使うくらいだった。そして時が経ち、結婚を機に東京に住むことになった。都内の同じ系列ホテルでフロントをしながら結婚生活を続けていたのだが、夜勤もあり、身体にこたえていた。満員電車で体が浮いた(人と人に挟まれて足が着いていない状態)経験もはじめてした。

夫の友人から仕事を紹介される

そんなある日、都内で働く夫の友人がイラストレーター経験者を探しているという事で話を聞いてみることになった。

 

夫の友人が働く会社は人材派遣業、広告などいろいろなことをやっている小さな会社でそこの知り合いの取引先の会社がイラストレーターができる人を探しているという。昔作ったポートフォリオを久しぶりに印刷し、見せると是非我が社へ、ということになった。しかしながらブランク期間が約10年、イラストレーターもフォトショップも進化していて使いこなせないかも、、と思いその旨を面接時にその会社と夫の友人に伝えた。紙媒体ばかりしておいてwebデザインも経験ありませんよ?と念を押しておいた。練習しとけば大丈夫でしょーみたいな軽いノリで終わり、採用となった。

 

会社は新宿のど真ん中、そこそこの会社の子会社で出来て数年だった。海外で働いていた経験があるとはいえ、地方出身の自分にとって東京のど真ん中でデスクワークで働く事になったことに少しワクワクしていた。昔憧れていた、自分のデザインが街に飾られる事があるかもしれないと、、。それと同時に怖かった。地方出身地の友人が上京して3年で鬱になって帰ってきた事も知ってた。自身が上京した時もすっぴんでも堂々と歩ける下町に住んでおり、テレビで見るようなキラキラした都内のOLとかの仲間になれるのだろうかと心配した。イラストレーターを久々に触り、練習もしておいた。

 

面接から数日後、会社のデザインの責任者や担当者、社長と夫の友人とで顔合わせ兼飲み会が開かれることになった。正直新宿は苦手で、夫と二人で遊びに新宿駅に到着しようものなら二人とも5分とたたず「帰ろっか、、、」となるところなのだが仕方ない、仕事のためである。

 

飲み会は普通に行われた。社長も夫の元友人で和気あいあいと和やかに進んだ。デザインチームに人たちも社長も優しく、「がんばりましょー」的なノリで飲み会は終了した。ひとまず夫の友人の会社から出向という形で入社、認められたらその会社に入社という事になった。

 

ホテルの仕事の引き継ぎもスムーズに行われた。支配人から引き止められたがもう心は新宿、というかデスクワークでデザインをすることに心が奪われていた。ただ、いつでも戻ってこれるようにと良い感じで辞める事ができた。

入社

採用から半月後の入社初日、PCのセッティングなどを色々行った。デザインのチームは数か月前に採用された20代の若い男性と進行管理的な人の3人。20代のデザイナーA君は以前はフリーランスで雑誌のインタビューとかにのってる人だった。彼はひとしきり彼の経験やら功績などを話してくれた。正直あんまりそのことを覚えていないが、心の中で「東京だなあ、、」とわけのわからない感想だったのを覚えている。

話が違う

デザイナーの隣で会社の事なども色々教えてもらったのだが、いきなり「webデザインばっかりです、photoshop中心に。」と言われた。面接当初は「紙媒体があるからまずそれをやってもらって、、」みたいな話だったのだがそれもなし、photoshop で全て制作するという事だった。photoshop 使ったことありますけどイラストレーターやインデザインに貼り付けるための写真加工のみですべてフォトショでやった事ないですよ?と念を押した。「すぐ慣れますよ」みたいな事を言われたが嫌な予感がした。

しかし仕事をやめてここに来たからにはやるしかない、、ので練習をした。課題を貰ってやってみたり写真を集めたりする仕事から始めたりした。webページの横の方にある広告のデザインなどを練習したりした。朝の出勤はフレックスで大体デザイナーが10:00位に出勤していた。それに合わせて私もその時間に出勤していたがフォトショの練習のためにそれより早く出勤しはじめた。

ある日早く出勤して練習をしているとデザイナーが僕より早く来ないでくださいみたいなことを言った。なんでか未だにわからない。なんで?と聞く事が出来なかった。

進行管理的なもう一人のチームの人は私とはほとんど関わらなかった。全てデザイナーA君とやりとりをしていた。

苦手なイケイケの集会

入社して1週間経った頃、会社の上半期かなんだかの集会が近くのホテルで開かれることになった。営業成績の発表や今行われているプロジェクトのことなどが発表されていた。よく見たら社員100名くらいの平均年齢は20代前半から30代前半でノリも「ちょっとこのノリは苦手だな」という印象だった。でもそんな事言ってられない、仕事は仕事である。紙媒体がなくてもいきなりwebデザインをやれと言われても会社の役に立たなきゃお給料貰えない。満員電車に乗りながら日々頑張った。でも正直チームや会社に馴染めなかった。昔思った「好きな事を仕事にするもんじゃない」も思い出してた。

クビ宣告

入社して2週間弱、日々photoshopに苦戦してたが大分慣れてきた頃、教えてもらってたデザイナーA君に呼ばれた。要約するとクビ。「日々頑張ってたのを見てて教えながら一緒にやっていこうと思ってたけど進行管理の〇〇さんが〜」と言っていた。あんまり覚えていないけれど印象に残ったのは

「僕のせいじゃない」

と言うことを一生懸命話してた。

・あなたが悪いなんて思ってない

・出来なくてすみません。只、面接の時に紙媒体しかやった事がないこと、10年ブランクあるのでご期待に沿えないかもしれませんよ?と念を押したはず。

など彼に伝えた。

このクビ宣告を聴いた後なぜかほっとした。もう、満員電車に1時間近く乗らなくていいこと、できない仕事を焦って会社に役に立とうと頑張らなくてよくなったこと、ベンチャーみたいなノリノリの雰囲気の中で仕事するのがとても苦痛でそれをしなくてよくなったことでほっとしたのである。しかしながら、こちとら仕事を辞めてきたわけであり、少し腹が立った。

夫の友人と社長と面談し、静かに怒る。

すぐに雇い元に連絡し社長と面談になった。どうやら進行管理的な人とデザイナーAが話し合ってphotoshopあまり使えない人はちょっと、、となったのである。そりゃそうだわ。2週間弱で大分慣れてきたころだっただけに少し残念だった。今まで過去仕事をしてきた中でいろんな事があったけどいつもわたしのあだ名は「仏」だった。怒らないからである。只、今回は怒った。静かに。ブランクの事、紙媒体の仕事で契約したこと、色々念を押したことなど。社長は謝り、給料は2週間分ではなく1か月分くれることになった。そして誰もいないお昼休み、会社を去った。そのあとじわじわと腹が立ったのは何でデザイナーAからその話をするのか、そして「僕はわるくない」みたいな器の小さい話し方をするのか、デザイナーからではなくチームのトップだった進行管理的な人から何も言わなかったのはなぜなのか。。。

といっても結局実力がともわなかったのは私が悪いのである。東京の中心でデザイナーとして働くという華々しい、過去少しあこがれた夢は散った。

あれから

会社をやめて現在フリーランスで働いている。といってもデザインではなく英語の仕事。自分に見合う仕事で家で仕事、満員電車に乗らず、仕事ができなくて焦る事もなく働いている。家事もできる。あのときクビになってなかったらこの幸せな仕事にはつけていないかもしれない。そう思うと感謝しかない。

もし今自分が20代だったらもう一度デザインの仕事に挑戦したいと思うかもしれない。有名になってあのころクビにしたあの人たちを見返したいと思うかもしれない。でも今は趣味で絵をかいてるだけで十分幸せだ。

最近

最近ふとその会社の情報が耳に入った。会社は株式譲渡され、社長は変わった。デザイナーは別の会社へ。もう自分にとってどうでもいい情報になってた。